安全な食品探しが自然食の使命なの?毒なし食を超えるモノとは!?

「毒」
毒はイヤ。毒はキライ。ましてや毒は、
“絶対に食べたくない”
私たちはこのように思っています。当然ですよね、誰も好んで毒を体に入れるようなことをしたくないわけですから。ヘビであっても、キノコであっても、あのおいしいフグだって、いつだって「毒」はコワイもの。あの白雪姫だって毒リンゴを食べて死んでしまったわけですから。
今回は、ちょっとダークな始まりでしたが、そこから「生命の力」について考えることで、無投薬無医療の生き方実現のヒントについて考えてみます。
■食と健康の関係は!?
「毒菜」
最近の野菜のことをこのように呼ぶことがあります。農薬の危険性はずい分知られるようになりましたし、過剰な肥料成分から生じる硝酸性窒素の問題。
それらが水、大気、土の汚染、そして人体にどれだけ負担になってしまうか?こうしたことから名づけられた名称といえそうです。
このブログを読まれているあなたも、なるべく自然で健康な安全食品を体に入れたい、そう思われているのではないでしょうか?
思えば、目の前の食べものを安全に、安心して口にすることができない。これは人類が初めて経験する
“未曽有の事態”
といえるのかもしれません。食糧問題は常に飢餓などの「量」、そして豊かな国と貧しい国との間の「分配」、そのことが永い間のテーマだったと思うからです。
いまでは量と分配の問題に加えて、「質」までもが盛んにいわれている。アレルギーやガンなどの成人病の蔓延、食べものとの密接な因果関係が盛んに言われるわけなのです。
■毒なし食で良いの!?
そうしたことから『食の安全』が課題になっているのですが、何だか食べることは、
「毒のない食品探し」
に終始する。そうした事態になり果てているようにも感じるのです。思えば、“食べものに毒がない”、それは極めて当たり前の事がらです。私たちは無感覚になりつつありますが、それが保障されないことがいかに
“異常な事態”
であることか!毒がないことをベースに置かないと、無農薬や食品添加物のない食材が良いもの、安全なもの、高級なものとして語られてしまうことになるのです。でも、
それは本来、決して良いものでも高級品でもない。人が本来食べるべき、
「当たり前」
のものであるといわねばなりません。正常と異常、それがどこかで入れ替わっているようにも感じるわけなのです。
毒のない食べもの探しが食品本来の使命ではない。食べるとは無毒を体にいれるような瑣末な行為ではない。ましてやよく分かっていない栄養素を摂り入れることでもない。あくまで
“他の生命を頂く”
ことで、自らの生命を維持・拡大していくこと。そして次の生命へとつなげていくためのもの。そのために必要不可欠な行為が「食べる」ことなのです。
■自然に学び実践する!
チーターは足が早い。トラやライオンは強い。鳥は翼を広げて自由に空を舞う。でもそれはあくまで、
「食があってこそのもの」
完全な飢餓状態では野生動物も鳥も、その本来備わった能力を縦横無尽に発揮することはできないはずなのです。本来備わった力を発揮させることが「食品の使命」。そうであるなら、人にとっての食は何を発揮させるための材料なのでしょうか?
自然界に、
寝たきりや点滴を打たなきゃ生きられない野生動物は存在しない。
また自然の野山もいつも肥料も農薬も使わないで未来永劫、繁栄している。
それなのに人が介入する田畑はいつも農薬・肥料まみれ、国家予算の40兆円は医療費に使われている。それを異常と思えないほど、私たちは麻痺しているように感じるのです。
自然界の法則に学ぶこと。その法則を取り入れて、
「医者にもクスリにも頼らない生き方」
を実現すること。そのための必要不可欠な材料が自然栽培や天然菌の発酵食品であると私たちは考えているのです。
単に毒のない食品という領域を越えて、食べることで力を持てるようになっていく食材。私たちに備わった本来の力を引き出せるようになること。
そうしたものを今後もみなさんと一緒に安全かつ、力のある食品探しをしていければと思います。
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